益世小学校は、令和7年(2025)10月に創立150周年を迎えます。これに先立ち100周年の時にまとめられました校誌「益世」から「益世小学校のあゆみ」を再録で、連載いたします。
掲載は原則として、毎月初旬に1回します。連載は、全15回の予定です。
2. 走井学校の誕生
学制はっぷ
明治の時代になり、日本は、外国との交わりを深めるようになりました。すると、日本の国が外国にくらべて、文化がたいへんおくれていることを知りました。そこで、だれもが勉強できる学校をつくる必要が、しんけんに考えられました。そして、明治5年8月3日、すべての人が、学校で勉強できるように学制がはっぷされました。
三重県(安濃津県)では、11月13日に県内を4中学区に分け、その下に小学区をもうけ、1小学区に1つの小学校をつくる計画をたてました。ところが、学校をつくるには、たいへんなお金がいりましたのでなかなか計画どおりにははかどりませんでした。
桑名市では、立教小学校がこの時にたてられています。
だれもが学校に行けるようになったことは、たいへん大きなできごとであったのです。今の日本のもとがこの時にできたといわれるわけです。
走井(はしりい)学校の創立
益世小学校は、走井学校として、明治8年10月30日、矢田村に民家をかりて開校しました。古い記録によりますと、当時の走井学校は、男71名、女43名で、先生は1人で授業料もとっていたと記録されています。
しかし、学校はできたのですが、子どもの半数は、学校へ来なかったようです。とくに女の子は、家の仕事を手伝う習慣があり、学校へ来れなかったようです。そのころの勉強は、寺子屋とあまりかわりがなかったようです。
校舎の新築
明治9年6月に、新しい校舎が、矢田の地に(近藤製油所の西となり)にたてられました。先生も2人となり、生徒も男97名、女54名とふえました。この校舎は残念なことに、明治9年12月、伊勢暴動のために焼けてしまいました。
明治13年4月になって、もくぞうひらやの新校舎がたてなおされました。生徒の数も多くなったために、教室の数も4つにふやし、学校の広さも、1000平方メートルと広げられました。そのころの学校としては、立派な学校でしたが、今の学校にくらべれば、たいへん小さな学校です。
(再録 令和5年9月 市川 記)