益世小学校は、令和7年(2025)10月に創立150周年を迎えます。これに先立ち100周年の時にまとめられました校誌「益世」から「益世小学校のあゆみ」を再録で、連載いたします。
掲載は原則として、毎月初旬に1回します。連載は、全15回の予定です。
4.明治の学校のようす
教科書
学校ができたころ、学校で使う教科書は、学校によってまちまちでした。外国の進んだ文化を一日も早く取り入れるために、外国の教科書をほんやくしたものを使ったり、往来者と言ってその土地の人々の生活に役立てる内容の本などを、教科書として使っていました。
学校の制度や授業の内容が整えられるとともに、教科書も、年々、小学校の内容にふさわしいものに整備されてきました。
明治10年(1877)ころになると、国の方針に従って勉強するのにふさわしい学年別の教科書もできるようになりました。
明治19年(1886)になると、教科書は文部省の検定制度となりました。検定制度ができると、今までの古い型の教科書は姿を消し、近代的な体裁を整えたものになりました。
明治39年(1906)には、国が教科書をつくるようになりました。全ごくどこの学校に行っても、みな同じ教科書を使って、勉強するようになったのです。この間、教科書は、国の方針によって、いくたびかかえられました。
教育勅語と御真影
明治23年(1890)10月30日、教育勅語が発表されました。
学制がはっぷされてから、一日も早く文化の進んだ外国に追いつこうとして、外国の文化を取り入れてきました。その結果、あまりにも外国のまねをしすぎたとして、政府内は、日本の教育の考え方を示すために、教育勅語を発表したのです。
続いて、明治25年(1892)になると、御真影(天皇陛下の写真)を各学校にくばりました。
この2つは、それからの学校にとって、一番大切なものとされました。
御真影は、儀式のあるごとに、式場の前にかざられ、教育勅語は、校長先生が朗読しました。
御真影は、ふだん「奉安殿」というところにしまわれていましたが、当時の益生小学校には、奉安殿がなかったので、役場にしまってありました。
明治42年(1909)奉安庫を新築し、8月31日、役場にあった御真影と教育勅語を、奉安庫に移しました。昭和8年(1933)3月には、立派な鉄筋コンクリートの奉安殿が玄関横につくられました。
学校にとっては、一番大切な建物だったのです。ですから、明治43年(1910)1月1日より、御真影・教育勅語を守るために、先生が交代で宿直をするようにもなりました。
明治天皇が崩御され、大正天皇の御真影が学校にわたされる時、益生小学校では、益生村の村長さんと校長先生が一しょにに桑名駅から人力車に乗って学校まで持ってこられました。
(再録 令和5年12月 市川景範 記)