【益世小学校のあゆみ 第6回】

益世小学校は、令和7年(2025)10月に創立150周年を迎えます。これに先立ち100周年の時にまとめられました校誌「益世」から「益世小学校のあゆみ」を再録で、連載いたします。

掲載は原則として、毎月初旬に1回します。連載は、全15回の予定です。

5.大正時代の学校のようす

学校生活

おじいさんやおばあさんの子どもの頃の学校のようすを、お話してもらいました。

楽しい思い出は、みなさんと同じように、運動会、学芸会(学習発表会)遠足などでした。

益世小学校が、東馬道にあった頃は、運動場がありませんでした。それで、運動会は、町屋川の河原で行ったそうです。明治41年(1908)に、東馬道から、今の所に、学校が移ってからは、運動場が広くなったので、学校で行うようになりました。

運動場には、一周50メートルのトラックをかきました。種目は、徒歩競争、大玉ころがし、玉入れ、借り物競争など、今とほとんど変わりがなかったようです。

学芸会は、今では学校では行いませんが、十数年前までは、益世小学校でも行っていました。当時は、父兄の前で観客席から出してもらった「題」によって、習字、図画をその場で直ちに書いて見せてやり、歌をうたったりして、おとうさんやおかあさんとたのしい一日を過ごしたそうです。時には、各地区に出かけて、各地区の集会所で、学芸会をしたこともあるそうです。

学習のようすでは、国語は、黒い表紙の教科書で、一年生に入学すると、まず、「ハト」「マメ」「マス」を読み書きしました。

この時代は、修身(今の道徳)が一番大切な授業でした。おじいさんやおばあさんの話では、「木口小平は死んでもラッパを口からはなしませんでした。」という話が印象深く残っているということでした。

習字は、今のように、習字紙を一枚一枚使うのではなくて、習字紙がノートのように一冊のとじられた「草子紙」というものを使っていました。紙が真っ黒になるまで練習し、なかには、真っ黒になった紙の上に、水で書いて練習していた人もいたそうです。家がまずしいので、みんなが物を大切にしたということです。

体育の時間は、着物を着たまま体操をしていました。体操の勉強は、今とちがって、徒手体操が主で、とび箱とかボール運動はありませんでした。

また、勉強がよくできた人や、一日も学校を休まなかったひとは、卒業式、終業式のとき賞状や賞品をもらいました。

子どもの日、勤労感謝の日など、祝日は、学校が休みです。

当時は、三大節といって、正月、天長節(天皇誕生日)紀元節(建国記念日)には、学校で儀式がありました。生徒は、羽織袴の正装をして出かけました。女の子は、黒の紋付、エビ茶の袴を着けて参列しました。儀式は、たいへん厳粛に行われました。

遊び

学校には、ブランコ・回転シーソー(当時の子どもは、輪転機と呼んでいたそうです)がありました。回転シーソーは、ずいぶんとハイカラなもので、全校の人気が集中して、取り合いをしたそうです。

ブランコは、校庭の南のはしの柳の木(今の運動場にある柳)の近くにありました。ブランコに乗ってとびおりるとき、柳の葉をどれだけ多くつかんおりるかの競争をして遊んだようです。

今のように、野球・ソフトボール・サッカーなどの遊びはありませんでした。が、今みなさんがやっている石けりは、明治、大正のときの子どもも、今と同じ方法でやっておりました。雨ふりには、女の子たちは、数えうたをうたって、お手玉をして遊びました。みなさんと同じように楽しく、元気に遊んでいたようです。

学区

今の新地、福江町、千代田町などは、益生学区ではありませんでした。これら地区の人たちは、日進小学校に通っていたのです。

それと反対に、日進小学校の近くにある江場の地区の人たちは、益生の学校に通っていました。近くに学校がありながら遠くまで通っていたのです

おじいさんやおとうさんたちの話では、江場から通う人たちと新地・福江町から日進へ通う人たちは、西矢田の通りですれちがいます。お互いに相手の学校の悪口をいいあって、よくけんかをしたそうです。

このような学区は、桑名市に合併した後の昭和十五年ごろまで続いていました。

(再録 令和6年1月 市川景範 記)