益世小学校は、令和7年(2025)10月に創立150周年を迎えます。これに先立ち100周年の時にまとめられました校誌「益世」から「益世小学校のあゆみ」を再録で、連載いたします。
掲載は原則として、毎月初旬に1回します。連載は、全15回の予定です。
7.戦争中のようす
苦しい悲しい想い出(その2)
戦争で、おとうさんをなくす友たちもでてきました。戦死された人の市葬が運動場で行われました。
戦争が長く続いたので、生活に必要な品物が、だんだん不足し、人々の生活は大へん苦しくなってきました。お米は配給制になり、衣料はキップ制になりました。お金があっても自由に品物を買うことができなかったのです。友だちの中には、代用食の「カボチャ」「さつまいも」を食べて学校へ通ってくる人が多くなりました。

“ほしがりません勝つまでは” “一億一心” を合ことばに、みんなが苦しさに耐えしのんだのです。
昭和18年ころになると、戦争は一段とはげしくなりました。アメリカの飛行機が、連日、日本の本土まで、爆弾を落としにやってきました。町のいたるところに防空ごうがつくられました。学校でも家庭でも、防空訓練が行われました。家から外に出るときには、だれもが防空頭巾をもち、胸には血液型と住所と、名まえをかいた布をつけていました。
勉強中に、空しゅう警報のサイレンが鳴るとすぐに勉強をやめて、家に帰りました。落ちついて勉強もできない状態でした。
空しゅうは、昼・夜をわかたず激しくなってきました。敵の飛行機の目じるしにならないよう、夜は灯火管制といって電球に黒い布をつけて、光が外にもれないように心がけました。部屋の中は暗くて、夜は勉強もあまりできませんでした。


学童動員
おとうさんやおにいさんは、ほとんど戦争に出かけ、工場で働く人が不足してきました。戦争のためにたくさんの兵器がいります。
そこで、大学生も中学生も勉強をやめて、工場へ働きにでるようになりました。小学校の高等科の児童も、工場へ出て働くことになりました。
第五国民学校の高等科の男子は、三重鋳造へ、女子は高等科1年が東洋製網へ、高等科2年が東洋ベアリング会社へ行って働きました。
昭和19年10月から昭和20年8月15日の終戦の日まで、高等科の生徒は、学校で勉強できず、ひまを見つけて、工場で勉強をしたのです。