関ヶ原の戦い後、桑名は東海道の要衝の地であることで、徳川家康の腹心の一人である、本多忠勝が藩主として桑名に入りました(1601年、慶長6年)。
その頃の桑名は、町屋川が走井山の下を流れ、矢田の地で3本に分かれ、支流の一部は北を流れる大山田川と合流して3本の川となり揖斐川に流れ込んでいました。そのため桑名は3つの島に分かれていました。
その当時の町屋川および大山田川の流路の位置を現在の地図上に投影したものが、城下町桑名の中世地形復元図 です。(青色部分をクリックして下さい。)
本多忠勝は、桑名に入ると都市計画を立て、これまで自然発生的に成長してきた町を根本的に作り直すことに着手しました。これを「慶長の町割り」と言います。
第一に、町屋川を桑名の街に入る直前(上野~西別所)辺りでほぼ直角に曲げ、街中を避け安永の南を流れ直接揖斐川に流れ込むように付け替えました。また大山田川の流れも町屋川の支流との合流も無くして直接揖斐川に流れ込むようにしました。これによりこれまで3つの島に分かれていたのが一つの町に結ばれました。
桑名城は現在の九華公園の位置に揖斐川に面して作られ、その周りに武士の町が、その外側に商人の町が作られました。工事は4年程掛かりました。
現在の益世地区に相当する地域は、域内を流れていた町屋川の本支流がなくなり、連続して、安定した一帯となりました。東海道、濃州街道(員弁街道)、多度道が通い、多くの人が住み活動する現在の益世地区の平坦部の基盤が出来ました。