【野草雑感 Ⅴ】

投稿者  新矢田一丁目  市川景範

七草粥(ななくさかゆ)

正月七日、今朝は我が家恒例の七草粥。材料の七草は栽培の七草セットであり、新暦であることから季節は冬の最中であるが、これを味わうと毎年改めて清新な気分になり、春の一番の息吹を感じる。

せり なずな ごぎょう はこべら 
ほとけのざ すずな すずしろ

これらを現在の呼び名で云えば、せり なずな ははこぐさ はこべ こおにたびらこ かぶ だいこん である。

これらの内、すずなとすずしろは有史前に栽培野菜として渡来したものであり、他は元来日本列島に存在していた。現在野菜として利用されているのは、せり、すずな、すずしろで他は(せりも含め)田園や水田周辺で極普通に見られる雑草であり、現在では山菜としても取り上げられることもほとんどない。この特別でない素朴さが何故か日本人らしさを感じさせるところでもある。

農業の発達がまだ十分でなかった古代、人々は春の若草の萌え出るのをどんなに待ったことだろうか。新鮮な野の味覚を口にできる事と共に、温かい季節の到来は希望に満ちた新しい生活の始まりを意味していた。そのような中での若菜摘みは、古代の人々には生活そのものであるとともに重要な春一番の行事であった。 

籠(こ)もよ み籠(こ)持(も)ち 
  掘(ふ)串(くし)もよ  み掘(ふ)串(くし)持(も)ち  
    この岳(おか)に 菜(な)摘(つ)ます児(こ) 
        家(いえ)聞(き)かな 名告(の)らさね・・・

(春の丘で、かごをさげて、へらで若菜を掘っているかわいい少女に呼びかけて、お前の家はどこなのか、名を言っておくれ ・・・)

これは誰もが知る万葉集の巻頭の歌である。雄略天皇の御製とされており、歌の内容は求婚であるが、その時代、巫女が若菜を摘み、神の代理である天皇に奉り、巫女と聖婚して秋の実りを祈るという重要な行事の際に天皇がうたう歌であったようである。

時は雄略天皇の時代、即ち五世紀半ばの古墳時代である。万葉集のいの一番に載せられているのは、若菜摘みが春一番の大きな歓びであったことを物語っている。

後の時代になると若菜摘みは生活行事と云うより上流社会の遊楽行事となるが、「正月子(ね)の日の遊び」あるいは「正月七日の若菜」として引き継がれてきた。いずれの頃からか若菜はある特定の種類に限られるようになり、現在の七草の組み合わせは室町時代から、江戸時代にかけて定まったようである。また七草粥は江戸時代には武家や庶民にも定着し、幕府では正月七日に公式行事として、将軍以下全ての武士が七草粥を食べる儀礼を行っていた。

古墳時代いや、それ以前からの若菜摘み行事は、現在の正月七日の七草粥まで綿々と引き継がれてきた。
この「七草粥」には、日本列島の農耕民族としての日本人の自然との関わりを大事にする心と来るべき春にかける意気を感ずる。