【益世小学校のあゆみ 第4回】

益世小学校は、令和7年(2025)10月に創立150周年をむかえます。これに先立ち100周年の時にまとめられました校誌「益世」から「益世小学校のあゆみ」を再録で、連載します。

掲載は、原則として、毎月初旬に1回、連載は、全15回の予定です。

益生(ますお)小学校 へ

明治21年(1888)7月市町村制がしかれ、それまで一つ一つの村であった、大福村、江場村、本願寺村、矢田村、上野村、繁松新田村の6つの村が合併して、益生(ますお)村となりました。

このとき(明治22年10月)江場村にあった養良小学簡易科授業所を合併して、益生小学簡易科授業所と名まえをかえました。

明治22年(1889)10月には、また、国のきまりが改められ、村の事情によっておくことのできた簡易授業所は、廃止されることになり、小学校はみな4年制の尋常小学校にしなければならなくなりました。益生小学簡易科授業所も、益生小学校と改められました。

江場分校

明治21年(1888)に6つの村を合併して益生村が誕生したので、校区がたいへん広くなりました。つまり日進小学校のあたりの子どもも益生小学校に通っていました。小さな1・2年生の子どもにとっては学校に通うことがたいへんなことでした。

そこで、明治28年(1895)4月に、江場に分校がもうけられました。江場から通ってくる1・2年の子どもは、この分校で勉強することになりました。

分校は、民家を買ったもので、教室の数は一つしかありませんでした。この分校は、6年間続き、明治34年(1901)3月に廃止されました。

義務教育6年となる

明治30年(1897)を過ぎたころ、日本の国もようやく進んだ外国の仲間入りをしようとしてきました。

そこで、それまで4年であった義務教育を、6年にしようとする考えがでてきました。しかし、まだまだ、4年の義務教育でさえ国民全体にゆきわたっていませんでした。そこで、義務教育を6年に延長するための準備として、尋常小学校に、2年生の高等小学校の併設をすすめてきました。

明治40年(1907)ごろになると、義務教育もようやく国民全体に広くゆきわたるようになり、2年制の高等小学校もお多く設置されるようになりました。

そこで、10年来の願いであった義務教育を、6年に延長されることに決定しました。

益生小学校も6年制の小学校となり、明治41年((1908)に、はじめての5年生が誕生しました。

そこで、明治41年(1908)、今の校地に新しい学校がつくられました。

6月に工事が始まり、10月に普通教室6、特別教室1、その他4つの立派な校舎が完成しました。

そして、明治42年(1909)になって、1年から6年までそろった、6学年の学校となりました。

益生尋常高等小学校となる

明治44年(1913)に、2年制の高等科が併設され、益生尋常高等小学校と名まえをかえました。

それまでは、益生小学校を(4年まで)を卒業すると、桑名郡立の高等小学校(4年制、今の立教小学校)へ通っていたのです。高等科2年から富田中学校(今の四日市高等学校)へ進学する人もいました。

ところで、その時の高等科の生徒は、1年生が男10名女13名で、2年生は、男9名、女8名でした。全校生は、434名の学校となりました。

新しく高等科をおいたため、教室が2教室たりなくなりました。そこで、この年の7月、2教室を新しくたて増しました。

(再録 令和5年11月 市川景範 記)