【益世小学校のあゆみ 第10回】

益世小学校は、令和7年(2025)10月に創立150周年を迎えます。これに先立ち100周年の時にまとめられました校誌「益世」から「益世小学校のあゆみ」を再録で、連載いたします。

掲載は原則として、毎月初旬に1回します。連載は、全15回の予定です。

8.戦後の学校

苦しかった学校生活

長かった戦争も終わりました。日本の主な都市は、空しゅうのため焼け野原になったしまいました。

桑名市も町の中心部のほとんどが焼けてしまいました。第五の学校は、幸いにも焼けずに残りました。第一(日進)、第二(精義)、第三(立教)、第四(城東)などの学校は、みな焼けてしまいました。

そのころの人々のくらしは、家はなく、食べ物をはじめ衣類など、生活に必要な品物はほとんど手にはいらないという苦しいものでした。

このような中での学校の勉強は大へんつらいものでした。

第五の学校では、焼けて学校がなくなった第二、第三国民学校の児童も、一しょに勉強することになりました。このほか、市立高等女学校、市立青年学校も間がりしていました。また市役所も焼けてしまったので、講堂で仕事をはじめました。

こんなようすですから、一日中ゆっくりと勉強することはできませんでした。二部授業といって、午前中勉強する組と午後から勉強する組に分かれて、学校に通いました。

物の不足していたときですから、教科書を新しく作ることはできません。そこで、戦争に関係あるところは、すみでぬりつぶしてつかいました。また、新しくできたものでも、半紙のような悪い紙で、4・5まいという薄っぺらなものもありました。そのほか、ノート、鉛筆などの学用品も手にはいらず、大へん困りました。勉強する教科もかわりました。修身がなくなり、地理、歴史はまとめられて社会科となりました。また、女子だけが勉強していた裁縫が家庭科となって男子も勉強するようになりました。

給食がはじまる

昭和23年から、学校給食がはじまりました。当時は食料のたりない時代で、食事をしないで学校へ来る児童もいました。

このようなとき、次の世代を背おう子どもを、健康に育てなければならないということで、外国の援助もあって、学校給食がはじめられたのです。

給食といっても、今のような完全給食ではありません。脱脂粉乳という粉ミルクを水でといてあっためたものや、野菜を入れたみそ汁という簡単なものでした。それでも、食べ物のたりないときでしたので、みんな喜んで食べました。

昭和25年から今のような完全給食がはじまったのです。益世の学校ではこのとき、給食室が一棟新し建てられました。

(再録 令和6年5月 市川景範 記)